大分市の盆踊り唄 1

1、地域別の特徴・伝承状況

 

(1)大分市

・市内の大部分が市街地化し、旧来の供養踊りというよりは夏のイベント的な要素の強い「盆踊り大会」が地域ごとに催されている。規模の大きいものとしては「本場鶴崎踊り大会」「稙田火群祭り」等がある。ほかに各中学校、小学校区ごとの盆踊り大会が方々で行われるほか、地区ごとの踊りもある。旧来の供養踊りは周縁部に残るのみ。ほかに宮踊りも点々と残っている。地蔵踊り、観音様の踊りなどはほとんど見られなくなっている。

・鶴崎踊りが隆盛を極め、周縁部を除くほぼ全域の盆踊りが鶴崎踊りに同化している。大正末期より徐々に広まり、各地に伝わる旧来の盆踊りにとってかわった。鶴崎踊りの演目「猿丸太夫」「祭文」と、地域ごとの新小唄や「炭坑節」等の音源による踊りとを組み合わせて行うことが多い。かつて最も広範囲で踊られていたのは「三勝」「祭文」だが、前者は坂ノ市方面や吉野などに残るのみとなっている。「祭文」も地域ごとに節や踊りが違ったが、今は鶴崎踊りのそれで代用している。ほかにも「扇子踊り」「お夏」「二つ拍子」「三重節」「竹刀踊り」「けつらかし」等、地域ごとにいろいろな演目があったが、これらは風前の灯である。

 

a 大分・豊府地区

・全域が市街地化しており、校区ごと、自治会ごとに盆踊り大会をしている。

・演目は鶴崎踊りの「猿丸太夫」「祭文」と、新小唄を組み合わせる。前者も含めて、すべて音源を流してそれに合わせて太鼓を敲くことが多い。

 

b 西大分・八幡地区

・校区ごと、自治会ごとに盆踊り大会をしている。

・白木、田ノ浦を除く地域の演目は鶴崎踊りの「猿丸太夫」「祭文」で、これに数種類の新小唄を組み合わせる。前者も含めて、すべて音源を流してそれに合わせて太鼓を敲くことが多い。かつては「江州音頭」も流行したが、白木辺りを除いてほぼ廃絶している。

(白木)

・合同で供養踊りをしている。

・演目は、旧来のものが「祭文」「猿丸太夫」「おけさ」「江州音頭」の4種類で、ほかに新小唄の踊りもしている。このうちもっとも古いのが「祭文」で、後に「おけさ」「江州音頭」が加わった(おそらく大正末期だろう)。これは民謡の音源を流して踊る類のものではなく、流行小唄として地元に定着したものが盆口説に転用されたもので、土着化している。「江州音頭」については、紡績工場の関係で関西と行き来があったため伝わったもので、たいへん流行した。「猿丸太夫」は鶴崎踊りの流行に伴い入ってきたものである。かつては口説と太鼓で踊ったが、現状は不明。

(田ノ浦)

・合同で供養踊りをしている。精霊船や振万灯など昔ながらの盆行事を伴っており、今や大分市内では貴重な風俗である。

・演目は、旧来のものが「扇子踊り(ヨーホイ)」「祭文」「猿丸太夫」「けつらかし」の4種類、ほかに「別府音頭」「温泉おどり」「別府ばやし」「炭坑節」等の新小唄の踊りもある。このうち古いものが「扇子踊り」「祭文」「けつらかし」で、後に鶴崎踊りの流行により「猿丸太夫」が加わり、旧の「祭文」は鶴崎の「祭文」に置き換わった。「けつらかし」も別府の「ヤッチキ」の音源で代用し、結局音頭も踊りも昔のまま伝わっているのは「扇子踊り」のみということになる(ただし音源を用いる)。

・「扇子踊り」は田ノ浦独特のもので、近隣に同種のものが全く見当たらない。音頭も踊りもとてもよいが、残念ながら鶴崎踊りの蔭に隠れており、対外的にはほとんど知られていない。

 

c 賀来地区

・校区ごと、自治会ごとに盆踊り大会をしている。宮踊りもある。

・昔は「祭文」「三勝」「けつらかし」等を口説と太鼓で踊っていたが、古い盆口説は廃絶している。今は鶴崎踊りの「猿丸太夫」「祭文」と新小唄を組み合わせて、音源を流して太鼓を敲く。なお、昔この地域で踊っていた「祭文」は挾間や野津原方面の節で、鶴崎踊りのそれとは違っていた。

 

d 稙田地区

・校区ごと、自治会ごとに盆踊り大会をしている。「稙田火群祭り」の盆踊り大会もあり、盛況。

・昔は「祭文」「三勝」等を口説と太鼓で踊っていたが、古い盆口説は廃絶している。今は鶴崎踊りの「猿丸太夫」「祭文」と新小唄を組み合わせて、音源を流して太鼓を敲く。

 

e 判田地区

・校区ごと、自治会ごとに盆踊り大会をしている。

・昔は「祭文」「三勝」「三重節」等を口説と太鼓で踊っていたが、古い盆口説は廃絶している。今は鶴崎踊りの「猿丸太夫」「祭文」と新小唄を組み合わせて、音源を流して太鼓を敲く。

 

f 戸次地区

・校区ごと、自治会ごとに盆踊り大会をしている。

・旧来の演目は「祭文」「三勝」「三重節」等で、口説と太鼓。このうち「祭文」は吉野地区と同様に、臼杵方面の節である。市街地化に伴い盆口説が下火になり、今は鶴崎踊りの「猿丸太夫」「祭文」と新小唄を組み合わせることが多い。

 

g 竹中・河原内地区

・地区ごとに盆踊り大会をしている。

・旧来の演目は「祭文」「三勝」「三重節」「竹刀踊り」で、口説と太鼓。

 

h 吉野地区

・集落ごとに合同供養踊りをするほか、地区全体の盆踊り大会もしている。

・現行の演目は「祭文」「三勝」「三重節」「お夏」「佐伯踊り」「葛引き」「絵島」の7種類で、口説と太鼓。大分市内でも昔の踊りがよく残っている地域で、保存会も組織されている。ほかに鶴崎踊りの「猿丸太夫」や新小唄も音源を流して踊っている。吉野の踊りは臼杵踊りと野津・犬飼方面の踊りが入ってきたもので、「祭文」「三勝」は市内他地域とは音頭も踊りも全く違う。「祭文」の音頭は臼杵の節で鶴崎踊りの節とは全く違い、踊り方は所謂「三つ拍子祭文」でも「佐伯踊り」でもなく吉野独特であって、地域でもそのことを認識しており保存伝承に熱心である。また「三勝」は「エイガサー節」であって坂ノ市方面に残るものとは全く違い、野津方面の「由来」と同じ踊り方。「三重節」「お夏」「佐伯踊り」も臼杵・野津犬飼方面のもの。「葛引き」は「ヤンソレ」形式の「三勝」を簡略化したもので、昔、中臼杵や下浦方面で流行した。「絵島」は佐賀関で行われる「きそん」や臼杵・野津・犬飼の「切り上げ」の音頭と同種の節である。7つの演目のうち、地区全体の盆踊り大会で踊るのは「祭文」と「三勝」のみで、残りの5種類は供養踊りのときしか踊らない。

 

i 東大分・滝尾地区

・校区ごと、自治会ごとに盆踊り大会をしている。

・旧来の演目は「祭文」「三勝」だが古い盆口説は廃絶し、今は鶴崎踊りの「猿丸太夫」「祭文」と新小唄を組み合わせて踊っている。

 

j 鶴崎地区

・校区ごと、自治会ごとに盆踊り大会をしている。盆明けに2夜連続で開かれる「本場鶴崎踊り」が盛況で、色とりどりの衣裳を着飾った踊り子が勢ぞろいし広いグラウンドに七重八重の輪が立つ。見物人も多い。

・鶴崎の人は昔から芸事を好み、盆踊りも盛んであった。戦前には初盆供養踊りをはじめとして地蔵踊り、観音様踊りなど、2週間ほど毎日踊りが立っていた由。とにかく踊り熱心で、踊りの坪がなくても、辻々でめいめいに小さな輪を立てて踊るような始末であったという。あまり踊りにかまけて生業に障りが出る云々の批判もあり、戦争を挿んで時代の流れにより今は大きな年に数夜となったが、「踊りどころ」の評判は衰えを知らない。

・昔、近隣では「祭文」や「三勝」を口説と太鼓で踊るのが常であったが、鶴崎の踊りは特別で、「鶴崎踊り」といって近隣の踊りと区別している。三味線や笛、胡弓も取り入れ、手振りもゆったりと優雅な雰囲気で非常に評判を呼び、ご成婚前の香淳皇后の御前で披露したことが絵葉書等で広く紹介されたほか別府に招かれて披露する等も度重なり、SP盤にも吹き込まれ、戦前から対外的に広く知られていた。その流れで、今なお県内のいろいろな盆踊りの中でも最も著名なものである。近隣地域でも大流行し、特に大分市内においては「三勝」「三重節」「けつらかし」や、その土地々々で節が違っていた「祭文」を駆逐してしまった感があり、昭和30年代以降は鶴崎踊りへの同化が著しい。

・演目は「猿丸太夫」「祭文」の2種類。通常、県内の盆踊りは佐賀関以南の漁村を除き、5種類から20種類程度のいろいろな踊りを次から次に踊ることが多かったが、鶴崎では昔からこの2種類のみであった。「猿丸太夫」を延々と踊り「祭文」はハネ前に少し踊る程度だったが、今は交互に踊っている。「猿丸太夫」は、大野・直入地方でも今なお踊られているが、鶴崎のものは雰囲気がずいぶん違い、別物といってもよいだろう。小豆島の「安田踊り」の音頭にそっくりの節で、何らかの関係があるのだろう。京都の「伊勢踊り」が入ってきたものだという説もある。一方「祭文」は県内のほぼ全域にいろいろな節で伝わっているが、鶴崎踊り系統の節・踊り方は別府湾に沿って国東町まで、内陸方面では玖珠方面まで流布しており、「祭文」の一派としては主流を占めている。歴史の古さとしては吉野地区や戸次地区でも唄われている臼杵踊り系統の「祭文」と双璧をなすもので、「猿丸太夫」よりも古くから踊られていた。

 

k 大在地区

・自治会ごとに盆踊り大会をしている。地区全体の盆踊り大会もあり、盛況。

・旧来の演目は「祭文」「三勝」だが古い盆口説は廃絶し、今は鶴崎踊りの「猿丸太夫」「祭文」を踊っている。

 

l 小佐井・丹生地区

・校区ごと、自治会ごとに盆踊り大会をしている。

・旧来の演目は「祭文」「三勝」の2種類で、これを交互に繰り返すのが常であった。ところが昭和30年代以降は鶴崎踊りに押されて「三勝」が徐々に廃ってしまい、今は鶴崎踊りの「猿丸太夫」「祭文」と新小唄を繰り返す例が多い。「三勝」はまだそれなりに踊られているも、旧の「祭文」は衰退著しく、屋山などごく一部に残るのみ。

 

m 坂ノ市地区

・自治会ごとに盆踊り大会をしている。地区全体の盆踊り大会もある。

・旧来の演目は「祭文」「三勝」の2種類で、これを交互に繰り返すのが常であった。ところが鶴崎踊りの流行で旧の「祭文」は廃れ、今は「三勝」と鶴崎踊りの「祭文」「猿丸太夫」、新小唄を組み合わせて踊っている。「三勝」は口説と太鼓、鶴崎踊りは鶴崎同様に鳴り物を加える。「三勝」ではイレコを挿む唄い方がよく残っている。

 

(2)佐賀関町

・一部には新しい住宅地も見られるが大部分が昔ながらの集落形態で、古い盆踊りがよく保存されている地域である。同じ北海部地方でも坂ノ市以西とは違い、初盆の供養踊りがほとんどで、レクリエーション的な「盆踊り大会」は数か所で開かれるのみ。観音様踊りも一部で続いているが、地蔵踊り等は廃れているようだ。

・神崎地区のうち木佐上あたりまでは鶴崎踊りが入ってきているが、大志生木以東の盆踊りは旧調を維持している。音頭・踊りが地域ごとに大きく異なり、大きく馬場、木佐上、大志生木、関、一尺屋の5つのグループに分けられる。共通の演目がないため、町全体の盆踊り大会では「関の鯛釣り踊り」しか踊らない。これは俚謡「一本釣り唄(櫓漕ぎ唄)」がレコード民謡化した「関の鯛釣り唄」に新しく振りをつけて輪踊りにしたもので、旧来のものではない。

・海部地方における「浦部の盆踊り」の北限であり、関から一尺屋にかけての地域ではその独特の様式が認められる。

 

a 神崎地区

・自治会または地区ごとに供養踊り、盆踊り大会をしている。

・大字ごとに演目が異なる。

(馬場)

・合同で供養踊りをしている。

・旧来の演目は「祭文」「三勝」だが、鶴崎踊りの流行により様子が変わり、今は鶴崎踊りの「猿丸太夫」「祭文」が主になっている。音源を流して踊る。

(木佐上)

・合同で盆踊り大会をしている。昔は集落ごとに供養踊りをしていた。

・旧来の演目は「三勝」「祭文」の2種類。木佐上の「三勝」は踊り方が独特で、「木佐上踊り」と呼んで親しまれてきた。「三勝」が主で、ハネ前に「祭文」を踊っていた。今は鶴崎踊りを取り入れており、「三勝」と鶴崎踊りの「猿丸太夫」「祭文」、新小唄を組み合わせている。「三勝」のみ口説と太鼓、ほかは音源を流して踊る。旧の「祭文」は廃れた。

・鶴崎踊りで輪を立てることが多く、自治会ごとに揃いの浴衣で組になって踊ることもあり、初めはやや盛り上がりに欠ける感じもする。ところが「三勝」の段になると普段着の人も次から次に輪に加わり踊りの輪は二重三重になり、いよいよ盛り上がってくる。昔ながらの「三勝」、「木佐上踊り」の人気の高さは相変わらずのようだ。

(大志生木)

・合同で供養踊りをしている。観音様踊りもある。

・現行の演目は「大志生木踊り」「祭文」の2種類。「大志生木踊り」の音頭は海部地方の沿岸部で唄われる盆口説(筆者は便宜的に海部節としている)の一種で、一尺屋の節に比べるとのんびりした田舎風の節である。これを延々と踊り、「祭文」はハネ前に20分ほど踊る。「祭文」は鶴崎踊りの流行以前に坂ノ市周辺で唄われていた節の一種であり、ときどき字余りのイレコを挿んでいくという古い唄い方がよく残っている。口説と太鼓。

・演目は2種類だけだが、特に「大志生木踊り」は近隣に全く見られないものであり、もっと広くアピールされてもよいかと思う。短調な手振りだがおもしろく、誰でも踊れるし、音頭の節も技巧的ではないが情趣に富んでいる。

 

b 佐賀関地区

・集落ごと、浦ごとに供養踊りをしている。小集落ごとに踊りを立てるので、盆の13日から17日頃にかけて、方々から盆口説が聞こえてくる。

・浦辺の盆踊りの常として、高い音頭棚を設けてその四方には七夕の笹や、盆提灯を飾り付けるなどたいへん賑やかにしている。ご先祖様が道に迷わないようにとの意味もあるのだろう。

・旧来の演目は「きそん」の1種類のみで、これを延々と続ける。これは近隣では「関の盆踊り」と呼ばれることもあったがこの地域独特のものというわけでもなく、海部地方から大野地方にかけて、盆踊りの最終に唄う「切音頭」あるいは「音頭がわり」「輪立て」など特別の場面で、盛んに口説かれている。一口口説の頭をひっくり返して長く引っ張る形のもので、近隣の「祭文」「三勝」等とは毛色が異なる。口説と太鼓。

 

c 一尺屋地区

・浦ごとに供養踊りをしている。

・佐賀関地区と同様に音頭棚がたいへん立派で、大型のものが目立つ。また、棚の下にはおきざを据えて、囃子を担うお婆さんや次の音頭取りが控えている例もある。踊りの坪には、輪を一重に大きくとっておき、その中にゴザ等をのべて初盆の家の人や踊りに来た人が自由に休めるようにしていることが多い。そこでは飲食をしながら故人を懐かしみ、踊り手も自由に輪から抜けてそこで休んだり、また輪に戻るなどのんびりとした雰囲気である。この地域の踊りは深夜まで続くが、このように踊り手が適宜好きなときに休むので、輪が小さくなることはない。

・現行の演目は、「手踊り」「提灯踊り」の2種類のみだが、後者はほとんど見られなくなってきている。音頭は、地の音頭は「海部節」の一種だが抑揚に富んだ節で、大志生木の音頭とは印象がずいぶん違う。この音頭に、適宜イレコを挿んだり、音頭がわりや切音頭の場合には佐賀関地区の「きそん」の節を挿んでいくので、変化に富んでいる。この一尺屋の音頭と「手踊り」は、「一尺屋踊り」とか「一尺屋節」と呼んで近隣でも流行した時期があった。今でも、臼杵市佐志生で盛んに踊られている。口説と太鼓。

 

(3)野津原町

・大分市に近い地域は一部ベッドタウン化しているが、大部分が昔ながらの集落形態である。しかしこの地域は高齢化・人口の減少が著しく、古い盆踊りは戦後、下火になっている。昭和40年代には音頭取りがおらず「炭坑節」「チキリンばやし」等の音源に合わせて踊るばかりになった集落が増え、今では盆踊り自体が廃絶したところが大部分となっているようだ。

 

a 野津原地区

・原村など、一部地域で盆踊り大会をしている。供養踊りは廃れている。かつては初盆の家を門廻りで踊ったり、弘法様の踊り、地蔵踊りなど、ひと夏に8回程度は輪を立てる集落が多かったようだ。

・旧来の演目は「ほうちょうのべのべ」「二つ拍子」「竹刀踊り」「祭文」「弓引き」「書生節」等あったが途絶えて、今は鶴崎踊り等の音源を流して踊っている。

 

b 諏訪地区

・昔は集落ごとに合同供養踊りをするほか、弘法様の踊り、地蔵踊りなど次々に踊りを立てていたが、昭和40年代より全ての踊りを集約して、諏訪地区の盆踊り大会として行うようになった。

・旧来の演目は「祭文」「ほうちょうのべのべ」「二つ拍子」「竹刀踊り」「弓引き」等あったが音頭取りがいなくなり、廃絶した。このうち「ほうちょうのべのべ」も「祭文」の一種で、これは鶴崎踊り系の節である。一方「祭文」は、庄内方面の節である。昭和40年代には「炭坑節」「チキリンばやし」等の音源を流して踊っていた。

 

c 今市地区

・集落ごとに合同供養踊りをする。ほとんどの集落で盆踊りが途絶えており、一部に残るのみとなっている。

・旧来の演目は「祭文」「猿丸太夫」「竹刀踊り」「二つ拍子」「大正踊り」「弓引き」など7種類程度があった。このうち「猿丸太夫」は、大野地方の「猿丸太夫」と鶴崎踊りの「祭文」を組み合わせたような節で、「祭文」は庄内方面の節。「竹刀踊り」は「杵築踊り」の節で、「二つ拍子」は大野方面の節である。この地域はもともとは直入郡で、大野・直入地方の演目と大分地方の演目が入り混じっている。

 

 

2、海部の盆口説について

 大志生木以南の沿岸部すなわち海部地方は、浦ごとに「ヨーヤセ」等の囃子をもつのんびりしたテンポの盆口説が残っている。それらは節が浦々で違うため一列に関連性を認めることは差し控えるが、一応、「祭文」や「入れ節」「切音頭」等に対する「地の音頭」すなわち、段物口説を長時間やる場合にいちばん長く唄う節としての位置づけは共通しており、一般に音頭の符牒を持たずに段物の外題を援用して「鈴木主水」や「白滝」などと呼ぶ傾向にある。そこで、この特徴を持つ盆口説については、比較の助けになればと思い分類別の項目に「海部」と付記している。

 

 

 

3、「三勝」系統の唄の分類について

 

 大分県下に種々残る盆踊り唄の広域性をみると、「祭文」は別格として、「三勝」(さんかつ・さんかち)の系統も五本の指に入ると思われる。ところがこの「三勝」という呼称は、全く意味不明である。そのほとんどが元をたどれば同系統と思われるが、節が細かく分かれており、それぞれ踊りも違う。それぞれ「三勝」「三重節」「カズラ引き」「お夏」「由来」などと思い思いの符牒で区別している。主たる符牒を以て分類項を設けると広域的な視座で比較する際に混乱の元となるので、以下では該当する項目名に「※三勝」と付して、同系統だとわかるようにした。

 

 

 

4、盆踊り唄集

※段物の全文は「盆口説」の記事を参照してください。

 

●●● 祭文(その1) ●●●

 この種の唄は、節はそれぞれ異なるが県内各地に伝承されている。いくつかの系統に大別されるが、ここに分類したものは鶴崎から東国東、玖珠に至る広範囲に亙って伝承されており、一応主流といってもよいだろう。このグループの中でも最も著名なのが鶴崎の節で、かつて大流行したこともあり、近隣への影響が著しい。実際、関崎(佐賀関)から来浦(国東)までの沿岸地域の「祭文」には節回し・踊り方ともに鶴崎との類似点が多々見出だせる。また、大分市内では、鶴崎踊りの影響から元々唄われていた「祭文」が廃れて、鶴崎踊りのそれに置き換わってしまった例が見られる。その土地の旧の「祭文」が鶴崎の節と大きく違っていれば共存し得たのかもしれないが、元々が鶴崎の節であるために、鶴崎に近い地域ではその違いが微細であったため、別物として認識し難かったのかもしれない。何にせよ、残念なことだ。

 ところで「祭文」は大分県下全域で「さえもん」と発音しており、「左右衛門」「佐衛門」「左ヱ門」等の用字が一般的だがいずれも当て字にすぎず、混乱を避けるためここでは全て「祭文」の表記とした。

 

盆踊り唄「祭文」 大分市鶴崎(鶴崎) <77・75一口>

☆豊後名物その名も高い(合) 踊る乙女の品のよさ

 (ソレー ソレー ヤトヤーソレサ)

☆清き流れの大野の川に 月に浮かべた屋形船

メモ:よその「祭文」は大抵、上句末尾の音引き部分に「コラサノサ」「ホホンホ」「ヨイトサッサ」などの囃子が付いている。ところが鶴崎ではそこを唄わずに三味線の合の手を挿むことで、より(お座敷調に)洗練された印象を受ける。その一方で土着性は薄まっており、当たり障りのない文句しか唄われていない。昔は段物口説も行われていたとのことで、今よりは自由奔放なものだったのだろう。ところで、現行の節と戦前のレコードの節(岡本律子の吹込み)とで、少し異なっている。人によって節が違っていたのを統一したのかもしれない。

(踊り方)

右輪の向きから

1・2 3回手拍子で3歩進み、輪の中向きに束足。

3 両手首を内に握り返して前に出しつつ右足を小さく踏む。

4 左前に流して指先をフセで開きつつ、左足を水際の向きに小さく踏む。

5 左手かざして右手フセにて小さく流しつつ、右足1歩さがる。

6 手拍子にて左足を引き戻して束足。

※歩幅は小さく、手の位置は高く、上品に踊るのが身上。親指はいつも内に折ったまま、残りの4本の指を揃えて静かに開くようにする(手がパーの形にならないようにする)。

 

盆踊り唄「祭文」 大分市丹生(丹生) <77・77段物>

☆どうで祭文な府内が元じゃサッコラサーノサー

 府内どころか臼杵が元じゃ(ソレー ソレヤート ヤンソレサ)

メモ:これは旧調で、廃絶している。今は鶴崎の節で踊る。

 

盆踊り唄「祭文」 大分市坂ノ市(市) <77・77段物>

☆どうでさえもんな 臼杵がもとよ ヤレホンカイナ(アドスコイドスコイ)

 誰もどなたもさえもんやろな(ソレーヤ ソレーヤ ヤトヤンソレサ)

☆一つ手を振りゃ千部の供養 二つ手を振りゃ万部の供養

メモ:これは旧調で、廃絶している。今は鶴崎の節で踊る。

 

盆踊り唄「祭文」 大分市細(佐加) <77・75一口>

☆日照り続きの雨乞いまつり(ヤレホンカイナ アードスコイドスコイ)

 九六位お山の水もらい(ソレーヤ ソレーヤ ヤットヤンソレナ)

☆志生木 小志生木のベラとるよりも 瓦切っても細がよい

メモ:これは旧調で、廃絶している。今は鶴崎の節で踊る。

 

盆踊り唄「祭文」 佐賀関町大志生木(大志生木) <77・75一口>

☆それじゃこれから コラ祭文にかかろ ホホイノホイ

 (アーヨイショヨイショ) どうで祭文な コラ府内が元よ

 (ソレーヤ ソレーヤ ヤトヤンソレナ)

☆あの娘かわいや 牡丹餅顔よ 黄粉つけたら なおかわい

☆沖のどんとなか お茶屋ができた 上り下りの 船招く

☆私ゃ祭文は イレコが好きよ 私ゃ祭文は イレコが十八番

「一かけ二かけて三かけて(アヨイショ)

 四かけて五かけて六かけて(アヨイショ)

 七八の欄干腰かけて(アヨイショ)

 はるか彼方に目をやれば(アヨイショ)

 十七八の姉ちゃんが(アヨイショ)

 筍かかえて泣いている(アヨイショ)

 姉ちゃん姉ちゃんなぜ泣くの(アヨイショ)

 すると姉ちゃんの申すには(アヨイショ)

 家の裏の竹やぶに(アヨイショ)

 紫竹破竹は生えたけど(アヨイショ)

 私ゃまだまだ コラ生えません(ソレーヤ ソレーヤ ヤトヤンソレナ)

☆はやく踊らにゃ 夜が更けますよ おせも子供も はよ出て踊れ

☆高い山では 白山お山 臼杵五万石 目の下に

☆関の権現様 お水が上がる 諸国諸人の 目の薬

☆ここで一丁どま イレコを入りょな 私ゃイレコが もとより好きよ

「一合升 二合升 三合升 四合升 五合升 六合升

 七合升 八合升 九合升 私とあなたは一升升

 一緒になれば寝られます 寝れば布団がふくれます

 ふくれりゃピョンコピョンコ動きます 動けば黄汁がこぼれます

 こぼれりゃ布団が汚れます 汚れりゃおっかさんに叱られる

 朝も早うから コラ布団の丸洗い

☆おらが町さに 来てみてござれ 米のなる木が おじぎする

☆別府湯の街 温泉街よ 一夜千両の お湯が湧く

☆空のお月さま まん丸う照らす 下で踊り子が まん丸う踊る

「ちょいと待たんせまた止めた 度々止めるは無理なれど

 本年も来年もまた止める 小佐井の井手まで行ってみたら

 あちらもこちらも跳ね釣瓶 下から持ち上げて跳ね返す

 これも問わず弁じゃ みなさまごめん

☆下の畑に 山芋植えて 長うなれ太うなれ 毛も生ゆれ

☆宵にゃ私の すりばちで とろろになるまで 摺りましょか

☆破れふんどし 将棋の駒よ 角かと思うたら 金が出た

☆祭文踊りも ほどよく終えた 踊るみなさん だんだんご苦労

☆今夜の祭文は この声かぎり みなさん長々 ご苦労でした

メモ:踊りも佳境に入り夜も更けてくれば、バレ唄的な文句やイレコが多く出てくる。鶴崎踊りの「祭文」が上品な当たり障りのない文句ばかりに固定されているのに対して、こちらはずいぶん、自由奔放な感じがする。思わず踊り手の間から笑い声が漏れることもあり、大らかな雰囲気である。大志生木の「祭文」は民衆の唄としての性格を色濃く残しているといえるだろう。地域性のある文句や珍しい文句が現地で多く聴かれたため、なるべくたくさんの文句を掲載した(「咲いた桜に」とか「姉と妹に」「安芸の宮島」などのありきたりのものは省いた)。節は、細のものと類似しており鶴崎踊りの系統である。ただしこちらの方がずっと田舎風で、テンポがややのろい。踊りも素朴で、手拍子してかいぐりで進み手拍子、両腕を伸ばしてぶらぶらと開いたり閉じたりして踊る。

 

 

 

●●● 祭文(その2) ●●●

 このグループは「臼杵踊り」の系統の節で、大分市のうち臼杵寄りの地域(小佐井・戸次・吉野)等にて採集例がある。今なお、吉野方面では盛んに踊られている。この節は広汎性を見れば鶴崎踊り系や「レソ」系のものには及ばないが、かなり古くから行われているようだ。いま、鶴崎の節と臼杵の節は相違点が目立つも、元は同じなのだろう。「どうで祭文な府内がもとじゃ、府内どころか臼杵がもとよ」云々の文句も知られており、どちらが元祖だ本元だの話もあったように聞く。しかし今となっては全く見当がつかず、或いは鶴崎・臼杵それぞれに同時期に上方から入ってきたのかもしれない。

 ところで、このグループの「祭文」は、上句末尾の音引きの囃子を基本的に音頭が取らないのが特徴である。別府湾沿岸部など多くの地域では、上句末尾を引いてそのまま音頭取りが「コラサノサ」とか「ホホンホー」と囃すのだが、こちらは引き延ばさずに切り、囃子手或いは踊り手が「ヨイトサッサー」などと囃すことが多い。また下句の囃子「ヤートセーヤートセ」も鶴崎以北・以西の「ソレエーソレエー…」の系統の囃子とは大きく異なるが、これは海部地方の長音頭「ヨーヤセ節」の類の影響も考えられる。

 

盆踊り唄「祭文」 大分市屋山(小佐井) <77・75一口>

☆盆の十六日おばんかて行たら(ヤトセッセセ)

 たたきごぼうに ふろうの煮しめ(ヤートセー ヤートセー)

 

盆踊り唄「祭文」 大分市吉野(吉野) <77・77段物>

☆わしはナ 田舎の百姓の生まれ(アヨイトサッサー)

 音頭ナ とるよな資格はないが(アソレ ヤートセー ヤートセ)

☆何か 一節ゃ理と乗せましょか そこで 踊り子よろしく頼む

メモ:吉野の「祭文」は臼杵の節なのに、臼杵の踊り方とは全く違う。臼杵の踊り方は「三つ拍子祭文」などと呼ぶがこれは鶴崎踊りの「三つ拍子祭文」ではなくて、所謂「佐伯踊り」の一種である。ところが吉野の踊り方には「佐伯踊り」の影も形も感じられず、むしろ、鶴崎踊りの「三つ拍子祭文」の面影が僅かに感じられる。こうなってくると、臼杵と鶴崎の「祭文」の関係性についても、全く無関係ではないような気もしてくるし、何が何やら混迷するばかりである。

(踊り方)

右輪の向きから

・両手首を高い位置で向こうにクルリクルリと返しつつ、4歩継ぎ足で進む。

・左、右と流して下がる。

・チョチョンがチョンで踏みかえる。

・3歩歩いて手拍子1つ。

 

盆踊り唄「祭文」 大分市戸次(戸次) <77・75一口>

☆盆の十六日おばんかて行たら サノエーサー

 なすび切りかけ ふろうの煮しめ(ソラ ヤートセー ソラヤトセー)

 

 

 

●●● 祭文(その3) ●●●

 こちらは「その1」の節をずっとのろまにして、田舎風にしたような節である。庄内から大野地方(野津・三重・清川をのぞく)・直入地方にかけての広範囲に亙って残っており、往時の流行のほどが伺われる。のんびりとしているが抑揚に富んだ節で、「その1」よりは唄い方が難しい。音引き部分の「ホホンホ」とか「ハハンハ」などに、古調の面影が感じられる。

 

盆踊り唄「祭文」 野津原町辻原(諏訪) <75・75段物>

☆国は長州 三田尻のハハンハー(アラヨイショヨイショ)

 一のお寺に伝照寺(ソレーヤ ソレー ヤートヤンソレサ)

☆お弟子数ある その中に 一のお弟子に俊海と

 

盆踊り唄「祭文」 野津原町竹矢(諏訪) <75・75段物>

☆国は長州 三田尻のホホンホ 一の港にカコ町と

☆寺も数々 ある中にヒヒンヒ 中をとりわけ伝照寺

メモ:大分県教委による「民謡緊急調査」から引いたもので、「ソレーヤソーレヤ」云々の囃子が欠落している。これは同調査において演唱者が一人で唄ったため囃子を省いただけで、本来は囃子を伴っていたのだろう。

 

盆踊り唄「祭文」 野津原町上町(今市) <75・75段物>

☆ちょいと祭文の通りがけヘヘンヨー(アラヨイショ)

 左衛門さんならやりなされ(ソレー ソレー ヤットヤンソレサ)

☆一本目なら池の松 二本目の庭の松

☆三本目の下り松 四本目には志賀の松

☆五本目には五葉の松 六つ昔の高砂や

☆七本目には姫小松 八本目には浜の松

☆九つここに植え並べ 十で豊受の伊勢の松

 

盆踊り唄「祭文」 大分市国分(賀来) <75・75段物>

☆恋路は京の柳町ホホンホ(アラヨイショ)

 よしある人の娘子に(ヤレーソレー ヤートヤンソレサイ)

☆お兼というて十五歳 いま振袖の丸額

メモ:野津原の節とほぼ同じで、テンポが遅い。太鼓を使わない。

 

 

 

●●● 祭文(その4) ●●●

 これは「その1」の節と、大野・直入方面の「猿丸太夫」があいのこになったような節である。後者は「猿丸太夫コラショイ、奥山に、紅葉踏み分け鳴く鹿の、アラヨイヨイヨイヨイヨイヤサー、トッチンチンリン」などと唄われており、いま鶴崎踊りで唄われる「猿丸太夫」とずいぶん違うが、元は同じと思われる。この下句は「祭文」にやや似ており、挾間町周辺ではそれにつられてか上句の節まで祭文風になっているほか、囃子に至っては「祭文」と全く同じである。かつては「猿丸太夫奥山に」云々の文句を首句にし、その唄い出しから「猿丸太夫」と呼んだのだろうが、節の要素としては「祭文」の方が強い。

 ほかにも、やせうま作りの際に唄った文句かと思われる「ほうちょうのべのべ」等の呼称もあるが、いずれも首句の唄い出しによる便宜的な呼称に過ぎない。

 

盆踊り唄「ほうちょうのべのべ」 野津原町野津原(野津原) <77・75一口>

☆ほうちょぬべぬべ今夜の夜食 チリテンツンシャン(アラヨイショヨイショ)

 早くぬばねば夜が明ける(ソレエンヤ ソレエンヤ ヤットヤンソレサ)

☆盆の十六日おばんかて行たら 茄子ゅ切りかけふろうの煮しめ

メモ:同じ野津原町の「祭文」でも、竹矢や辻原で採集されている「祭文」とは節がずいぶん違う。こちらはテンポが速く、陰旋化が著しい。ところで、「ほうちょぬべぬべ」の「ほうちょ」とは包丁でなく、鮑腸である。鮑腸とは大分の郷土料理で、小麦粉の団子をうどんくらいの太さに長く長く引き伸ばしたもので、あまり手間がかかるのでほとんど作られなくなったが、戸次地区では地域の文化として大切にされている。これとは別に、小麦の団子を手で平べったくのばしたものを「鮑腸」と呼ぶ地域もある。こちらを味噌汁に入れたものは「団子汁」「打ち込み」として今でも広く親しまれている。昔はお米を節約したので「団子汁」は農村部の夕食の定番で、季節の野菜で盛んに作られていた。場合によっては団子をこねずに水でゆるく溶いた小麦粉を流し入れる作り方もあったという。また、平べったい方の鮑腸に黄な粉をまぶしたものは「やせうま」といって、子供のおやつに喜ばれていた。これはお盆のお供えとしても作られていた。

 

盆踊り唄「ほうちょうのべのべ」 野津原町岡倉(諏訪) <77・77一口>

☆ほうちょうのべのべ今夜の夜食チリツンテンシャン(アラヨイショヨイショ)

 早くぬばねば夜が明ける(ソレーヤ ソレーヤ ヤットヤンソレサ)

メモ:野津原の節よりもテンポがやや遅い。

 

盆踊り唄「猿丸太夫」 野津原町上町(今市) <75・75一口>

☆猿丸太夫 奥山のチリツンテンシャン(ハヨイショヨイショ)

 紅葉踏み分け鳴く鹿の(ソレエー ソレエー ヤットヤンソレサ)

☆蓬莱山で鹿が鳴く 寒さで鳴くか妻呼ぶか

☆寒さで鳴かぬ妻呼ばぬ 明日はお山のお鹿狩

☆来るか来るかと川下見れば 川にゃ柳の影ばかり

☆二度と持ちまち川越し馴染み 空が曇れば気が揉める

☆どうぞ皆さんお構えなされ 変える踊りは二つ拍子

 

盆踊り唄「猿丸太夫」 大分市国分(賀来) <77・75一口>

☆こいさここに寝て明日の晩はどこかコラサノサ(アラヨイショヨイヨイ)

 明日は田の中あぜ枕(ソレー ソレー ヤトヤンソレサ)

☆わしとあなたは深田のたにし 深くはまらにゃとれません

メモ:これは旧調で、廃絶している。今は鶴崎の節で踊る。また、賀来ではこれと「祭文」を区別していた。後者は「その3」のグループの節。

 

 

 

●●● 猿丸太夫 ●●●

 こちらは鶴崎踊りで唄われる節で、たいへん流行した。大野町・朝地町・緒方町・竹田市・久住町・直入町などの「猿丸太夫」は、いずれも「猿丸太夫奥山に…」を首句としており、その唄い出しから「猿丸太夫」と呼んでいる。この種の符牒は多分に流行小唄的であって、これらの地域のものは末尾に「ヨイヨイヨイヨイヨイヤサー、トッチンチンリントッチンチンリン」等の口三味線風の囃子がついていることからも、三弦を伴うはやり唄を転用したものと思われる。ところが鶴崎のものは元唄の首句を省いて「来ませ見せましょ…」と踊り自慢の文句で唄い始めるため、「猿丸太夫」の呼称の由来がわかりにくくなっている。節も大野直入地方のものとはずいぶん違っており、鶴崎の方が節を長く引き伸ばす、技巧的な唄い方である。しかも三味線、胡弓、横笛を伴うため優雅な雰囲気がある。おそらく三味線の手も節回しも、古い時代に改調を繰り返して今に伝わる形に整ったのだろう。節回しには「潮来出島」との類似点も感じられ、古い時代に、そういった花柳界の三弦唄のよいところを生かしながら、元唄の節をよりお座敷調に洗練させたのではないかと思う。そのためか囃子のあとに入る三味線の合の手も「トッチンチンリン」ではない。この節はかつては別府方面でも流行し、三味線の手を改めて新しい文句を乗せ、「別府踊り」として端唄風の唄い方で唄われることもあった。

 ところで、「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき」の作者は「猿丸大夫」である。元唄は「猿丸大夫、奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の、ヨイヨイヨイヨイ…」「小式部内侍、大江山、幾野の道の遠ければ…」「周防の内侍、春の夜の、夢ばかりなる手枕に…」のように、歌人とその代表的な歌を並べていくような唄なので、それから考えれば首句の冒頭からの符牒ということで曲名も「猿丸大夫」の用字とするのが適切と思われる。しかし、盆踊り唄としては「猿丸太夫」の用字の方が広く通用しているためここでもそれに従い、鶴崎に限らず県内の同種の唄は全て「猿丸太夫」の用字としている。

 

盆踊り唄「猿丸太夫」 大分市鶴崎(鶴崎) <77・75一口>

☆来ませ見せましょ鶴崎踊り(合) いずれ劣らぬ花ばかり(合)

 (ヨイーヨーイー ヨイーヨイー ヨイヤーサー)

☆娘島田に蝶々がとまる とまるはずだよ花じゃもの

 (踊りは 花だよ 花だよ)

メモ:踊り方は、手数は多くはないものの身のこなしがとても難しい。両手首を内に返しながら握って、反対に流しながら手首を戻して指先をパッと伏せのばす所作が独特で、このときに指先を揃えて、親指は内に折り曲げておくため非常にしなやかな雰囲気があり、とてもよい踊りである。鶴崎踊りではこの「猿丸太夫」と「祭文」が踊られているが、踊りの比重としては「猿丸太夫」がずっと上である。一般に鶴崎踊りといえば「猿丸太夫」の方を指す。